それはなかなかに唐突な一言だった。
「俺、宿替えするんだ。」
空には花火の華火線がきらきら綺麗に開いては、
幻のように滲んでそのまま、
夜空の藍へと吸い込まれてゆくのの繰り返し。
雑踏の中、涼しげな浴衣姿の彼を見つけて、
自然な反応、するすると間近まで近づけば、
気配は消していたはずなのに、あと数間というところで気づかれて。
出店でかき氷でも食べたか、甘い匂いを振り撒きながら、
まだまだいかにも子供っぽい造作の手、ぶんぶんと振って見せた、
これでも一応、十手を預かる岡っ引きの親分さん。
それが、やっぱり屈託のない言い方で、
そんな大事、ケロッて言ってのけたもんだから。
「…宿替えって。」
そんな、だって、
じゃあ“お上”から配領のお勤めは、十手はどうなんだ?
引っ越しした先でも続けんのか?
つか、何でまたそんな急なこと。
とんでもない失態でもやらかしたか、いやいやそんな情報は入ってない。
あの町内のことは、公儀からの使命と同じくらいマメに、
取りこぼしのないよう、気をつけて窺ってたのによ。
「それにしても暑っついなぁ〜〜〜。」
俺そんなに汗っかきじゃあないのによ、
人込みなせいかな、暑いったらねぇぜと、
薄い生地の懐ろをくつろげてのハタハタ仰いでいる様もまた、
何でか愛らしくて見えてしょうがなく。
「宿替えって…いつなんだ?」
この、ついついもしゃもしゃとなで繰り回したくなるような、
仔犬みたいに無邪気で屈託のない、ちんまい親分さんが。
どっか遠くへ引っ越してってちまうとは。
あまりにも寝耳に水な話だったので、
頭上で上がる花火の轟音や、
周囲にぎっちり居合わせた見物衆のざわめき、
そんな喧噪のせいでの聞き間違いかもと往生際悪くも思ったものの、
「ん〜と、あしたの朝。だから、今晩は早く寝ねぇといけねくてさ。」
けど、この川開きの花火だけは見逃せないからよ、
やっぱ見物に来ちまったと、あははと朗らかに笑うのが。
何でもないことみたいに言うのがさ。
畜生め、却って憎々しいじゃねぇかよ、おい。
越してく先はやっぱ此処っから遠いのか?
だから、この花火も見納めってことなのか?
「………。」
そんなあっけらかんとしてんなよなと、
何でだろ、無性に苛ついた。
腹の底の方がむずむずする。
そりゃあ俺はこんな成りしてっから、
どこんでも姿を出せる身の上じゃああるけどよ。
それは表向きの話で、実はこのお城下から離れる訳にはいかねぇ。
畑の多い川向こうとか、大川の中洲の先の木場辺りだとか、
そんなトコまで足を延ばしてたら、
肝心な此処での情報収集がおざなりになっちまうから、
いくら俺でもそうまで遠くへの顔出しは無理だろし。
「…坊様、じゃねぇ、ゾロ?」
きゅうにむっつりしちまって どしたんだと、
こぼれ落ちそうな大きな眸を見張り、
ひょこり小首を傾げる仕草のあまりの幼さに、
「………。」
ああいけねぇ、手が止まんねぇ。
まん丸ぁるい頭の、後ろへと手を回し、
ぐいと引き寄せ、懐ろへ。
まだちょっと骨張ってる薄い肩とか、
それがそうと判るほど、柔らかい肉づきなんだってこととか、
背中、こんな薄いんだ。回した腕が余るぞ、親分。
あんなに食うのに肉がつかねぇとは、
そこいらの女子なら嬉しいかも知れんが、
捕り物に駆け回る身には、
スタミナが切れやすくて難儀なことだよな。
呼んでくれりゃあ飛んで行けたもんが、
明日からはそうも行かなくなんのかな…。
「ぞ、ぞろ? /////////」
ああ、すまねぇな。
何か後ろを通ろうとした奴がいたんで、つい。
言うより早いかと思って引っ張っちまったと、
手を離しながら、下手くそな誤魔化しを並べれば、
「そそそ、そうか。うん。/////////」
真っ赤になりつつも、あっさり納得してくれて。
ごめんな。
そういや俺、親分には嘘ばっか言ってるよな。
何も全くの全然逢えなくなる訳じゃあなし、
今度逢うときは、少しはホントのことも言えたらいいな。
引っ越し先の長屋では、気をつけるんだぞ?
親分だって箔がなくなったら、
あんた、ただの可愛い坊主なんだから。
妙な奴に目ぇつけられんじゃねぇぞ?
寂しくなったら戻って来いな?…って、それはないか。
親分は友達ってのを作るのが上手いから。
そっか、もう行くか。
元気でな。
暑いからって腹出して寝たりして、身体壊すなよ?
◇ ◇ ◇
中国が発祥の“七夕”の風習が民間へまで降りて来たのは、江戸時代とされており、朝露で磨った墨でお習字をしたり、笹かざりを立てたり。子供たちは、筆やソロバン、裁縫が上手になりますようにと、お星様に無邪気な願いをかける。あと、町では長屋ごとに井戸を浚う。井戸側を外して大きな桶を下ろし、水をくみ出す。職人さんや、身の軽い慣れた住人が、胴に縄をくくっての他の大人たちに吊り下げられて、水面までを降りてゆき。爪楊枝だのザルだのといったごみを拾い上げ、井戸の内側を掃除し、中も外もすっかりと綺麗にしてから、蓋をした上へお神酒と塩を捧げて新しい水が溜まるまで待つ。
このお仕事のことを“井戸換え”という。
「…親分、今日やるって言ってたのは、もしや。」
「おうっ! 井戸換えだ!」
「親分は身が軽いし、力持ちだから、毎年お願いしているのよ? お坊様。」
「お〜い、おリカ。お前がなくしたって言ってた櫛があったぞ。」
「え〜? 何で井戸なんかに?」
「さてな、ネコがくわえてって落としたのかもな。」
「………お坊様、どうしたの?」
「いや何、ちょっとな。」
人騒がせなとか、そういや花火の音が喧しかったから聞き間違えたんだなとか。勘違いしてた俺って何とか、色々な想いがグルグルと仕掛かったけれど。
「これが済んだら、坊さんも一緒にスイカ食おうな?」
「お、おう。/////」
無邪気な親分さんのそれは屈託のない笑顔に、全部相殺されてしまったらしく。ただただ“ほ〜〜〜〜〜っ”と大きく安堵の吐息をついてから、胸を撫でおろすばかりなお坊様だったりするのであった。(苦笑)
残暑 お見舞い申し上げます
〜Fine〜 07.8.08.(立秋)
*ちなみに、今年の旧の七夕は8月19日です。
もっと遅くて24日とかって年もあるくらいなので、
旧暦で“お誕生日”という概念を成立させるのって、
やっぱり難しかったんでしょうねとつくづく思います。
井戸換えは正確には夏の風習なので、
秋の季語になる七夕より早い行事なのかもですが。
川開きなんてもっと早いはずなんですが、
まま、このお話は江戸が舞台じゃあないらしいので。(こんな時だけ…)


|